捨てる神と拾う神。

 どうもこんにちは、くまじろうです。

今日も今日とてぐうたらと、独り言をブツブツつぶやきます。

「捨てる神あれば拾う神あり」なんて言葉があるけれど、最近まさにそんな出来事がたくさんあって、今が人生の転換期なのかな、と思うことがしばしばあります。


端的に言ったら「引っ越し」「転職」

この二つに尽きます。


前回の記事に投稿した通り、私は結婚を機に引っ越しと転職をしました。

でも、小学校の教諭をしていたし、年度の最後までやり遂げることはありませんでした。

では、それはなぜか……。


私にとっての「捨てる神」が前職だったからです。


端的に言うと、人間関係が最終的にこじれるところまでこじれて、限界がきてしまったのです。

超過勤務の常態化、支払われない残業代、職場の人間関係のストレス、自分の適性…etc

色んな要素が複合的に組み合わさった結果、適応障害が発症しました。


適応障害とは何かというと、特定の場所や人間関係において心身が拒否反応を起こしてしまう心の病気です。

私の場合、出勤前の激しい動悸と胸の痛み、喉のつかえ、胃腸の不快感、酷い時には過呼吸が発症しました。


正直、適応障害になるに至るまでに、決定的な出来事もありましたが、ずっと心のどこかで毎日「早く辞めたい」「自分にはこの仕事はあまりにも向いていない」「さっさと結婚してこの職場を離れたい」と思っていました。

今思えば、そういった辞めるまでのカウントダウンをするような捨て鉢な態度が、あの結果を招いたのだと感じています。

本気で「頑張りたい」「意義がある」と思えない仕事に対して、努力しようという気持ちが持てず、ミスをしても「どうせ辞めるし」ということが頭の片隅にありました。

きっと自分はこの経験を一生涯忘れることはできないと思います。

そのくらい、深く心に爪痕を残す出来事でした。


それでは、私にとっての「拾う神」とは何だったのか。

それは、今まで培ってきた職場外の人間関係だと捉えています。


適応障害の診察を受ける直前、我慢のギリギリで相談に乗ってくれて、通院を進めてくれた友人。

私の身に起きた出来事に対して、自分以上に怒り、悲しみ、励ましてくれた家族。

転職活動をするにあたって、面接する会社と類似した自分の職場を見学させてくれた友人。

ただただ話を聞いて、私の弱音や愚痴を受け止めてくれた友人。

直接言葉は交わせなくても、SNS上から激励してくれた友人。

そして、何より自分がどんな失敗をしても、どんなにどん底にいても、ずっと隣で私の幸せを願って支えてくれた彼氏。


弱っていて自分がどんなに情けない時でも、自分には支えてくれて励ましてくれて、力になろうと手を差し伸べてくれる人が必ずいました。


そういう存在は、作ろうと思って簡単に作れるものではないし、自分のこれまでの人生で得ることができた財産なのだと感じました。

2-6-2の法則という、自分が関わる人の中で自分をどうしても嫌いになる2割、自分の行動次第で好きにも嫌いにもなる6割、何があっても好きでいてくれる2割のお話がありますが、きっと、私にとっての捨てる神と拾う神は、この両極端にいるそれぞれの2割なのだと思います。


どうやっても嫌われる2割と、何があっても好きでいてくれる2割。

前者と毎日関われば、自己否定が続くし、後者と毎日関われば、自分をもっと好きになれる。

どちらが自分にとって魅力的かは、考えるまでもありませんでした。


私はまだ、全職場との書類のやり取りをするだけで丸一日気持ちが沈みこんだり、動悸で夜眠れなくなる程度には、まだ適応障害というものは完治していません。

封筒を見るだけで動悸が激しくなったり、封筒を自分で開けられなかったり、電話に出られず第三者を介してやり取りをお願いしたりしなければ、事務的な手続きもままならない状況が続いています。

心の病は一生の傷になるでしょう。

ですが、私と同じように苦しい思いを抱えながら毎日を生きている誰かに伝えたいです。

自分を嫌う2割じゃなくて、自分を愛する2割の人と沢山の時間を過ごしてほしい。

そうして大好きな人との大好きな時間を沢山過ごして、自分のことを「なんか」なんて言わないでほしい。

もっともっと自分を好きになってほしい。

ズボラにしては真面目に文章を書いてしまい、ちょっと悔しい気持ちでいっぱいですが、このブログがどこか遠くの誰かに届いて、いつかその誰かの背中を押せますように。

コメント